登入美咲は、自宅に帰ってからもスマートフォンを手放せなかった。
画面には、あのメッセージが残っている。 『蓮のことを忘れてください』 短い文章だった。 それなのに、何度読んでも胸の奥が落ち着かない。 誰が送ってきたのか。 どうして自分のことを知っているのか。 そして何より。 どうして、蓮のことを忘れろと言うのか。 美咲はソファに座ったまま、蓮とのメッセージ画面を開いた。 最後に会った日のことを思い出す。 「僕と一緒にいると、あなたが傷つくかもしれない」 あのときの蓮は、いつもの穏やかな表情ではなかった。 何かを恐れていた。 美咲には、そう見えた。 「……やっぱり、何かあるんだ」 今までは、蓮が話したくないなら無理に聞かなくてもいいと思っていた。 過去には誰にだって触れられたくない部分がある。 自分にもある。 だから、待つつもりだった。 いつか蓮が話してくれるまで。 けれど。 もう「待っているだけ」ではいられなかった。 知らないところで、自分にまで警告が届いた。 それはもう、蓮一人の問題ではない。 美咲はスマートフォンを置いた。 そして、ノートパソコンを開いた。 検索画面に、言葉を入力する。 『蓮 事件』 いくつかの結果が表示された。 けれど、蓮という名前だけでは情報が多すぎる。 美咲は少し迷ってから、もう一度入力した。 『五年前 殺人事件 黒崎誠一』 画面にニュース記事が並んだ。 その名前を見た瞬間、美咲の指が止まった。 黒崎誠一。 五年前に殺害された、黒崎グループの社長。 事件当時の記事には、会社関係者や取引先など、多くの名前が並んでいる。 美咲は一つの記事を開いた。 事件の概要。 発見された場所。 死亡推定時刻。 捜査状況。 そして、最後のほうに。 『事件当時、現場付近にいた会社関係者の男性についても事情聴取が行われた』 男性の名前が書かれている。 ──桐谷蓮。 「……桐谷」 美咲はその名前を見つめた。 蓮が、自分の苗字を一度も言わなかった理由。 ただ、そこまでなら偶然だと思えた。 でも。 記事に掲載されていた写真を見た瞬間、美咲は息を止めた。 五年前の写真。 少し若い。 髪型も違う。 それでも、間違えるはずがなかった。 「……蓮」 声が震える。 写真の中の男性は、間違いなく彼だった。 美咲は画面を拡大した。 記事には、事件の重要参考人として桐谷蓮の名前が載っている。 けれど、逮捕されたという記述はない。 裁判の記事もない。 ただ、事件後に行方がわからなくなった、とある。 「どういうこと……?」 美咲は記事を読み進めた。 捜査は数か月続いたものの、決定的な証拠は見つからなかった。 そして、事件は未解決のまま時間が過ぎている。 美咲は椅子の背もたれに身体を預けた。 少なくとも。 蓮が逮捕されて、刑務所に入っていたというわけではない。 けれど、事件現場にいた。 そして、そのことを今まで自分に話さなかった。 「……何があったの?」 画面に向かって問いかけても、答えは返ってこない。 翌日。 蓮は高瀬から新しい資料を受け取っていた。 「これが、見つかった監視映像の記録だ」 紙の資料と、保存された映像データ。 蓮は資料に目を通す。 「車の持ち主は?」 「まだ調べている途中だ。ただ、車種は特定できた」 高瀬が別の資料を差し出した。 「この車は、黒崎の会社が使っていた車じゃない」 蓮の眉がわずかに動く。 「じゃあ、誰の車ですか」 「それが問題なんだ」 高瀬は一枚の写真を指差した。 「事件当日の午後、同じ車が黒崎グループの本社前でも確認されている」 蓮は黙って写真を見る。 同じ車。 同じ日。 そして、夜には事件現場近く。 「……誰かが黒崎を監視していた?」 「可能性はある」 「でも、どうして当時の捜査で……」 「記録が抜けている」 高瀬の言葉に、蓮は顔を上げた。 「抜けている?」 「正確には、捜査資料から消えている」 二人の間に沈黙が落ちた。 高瀬は続ける。 「当時の担当者にも確認した。誰かが意図的に処理した可能性がある」 蓮は資料を握りしめた。 五年前。 あの事件では、最初から何かがおかしかった。 自分はそれに気づいていた。 だからこそ怖くなった。 そして、逃げた。 証拠を隠した。 誰かを守ろうとした。 けれど、その行動によって本当のことまで埋もれてしまった。 「……俺がもっと早く話していれば」 「そう思っているなら、今から話せ」 高瀬の声は厳しかった。 「過去は変えられない。でも、これから何をするかは選べる」 蓮は目を伏せる。 「……わかっています」 「なら、もう一つ聞く」 高瀬が少し間を置いた。 「お前が今、一番気にしているのは事件のことか?」 蓮は答えなかった。 高瀬は小さく息を吐く。 「……女のことか」 「……」 「図星だな」 蓮は苦笑した。 「巻き込みたくないんです」 「だから何も言わずに離れた?」 「はい」 「それで、守れていると思うか?」 蓮は何も言えなかった。 昨夜届いた電話。 そして、美咲への警告。 すでに彼女は巻き込まれている。 「……俺が間違っていたのかもしれません」 「そこに気づいたなら、次はどうする?」 蓮はしばらく考えた。 「……自分で決めさせます」 高瀬が黙って蓮を見る。 「何を知るかも、何を選ぶかも。俺が決めることじゃない」 その言葉は、以前の自分とは違っていた。 美咲を守るために、彼女から選択肢を奪っていた。 それが正しいことだと思い込んでいた。 けれど。 美咲は言った。 ──私が傷つくかどうかは、私が決めることじゃないですか? 「……あの人なら、きっと怒るでしょうね」 「何が?」 「勝手に決めたことに」 高瀬は少しだけ笑った。 「なら、ちゃんと話せ」 蓮は返事をしなかった。 その夜。 美咲は再びパソコンの画面を開いた。 「桐谷蓮」 検索欄に、その名前を入力する。 五年前の記事。 事件の概要。 黒崎グループ。 いくつかの情報を読み進めるうちに、美咲は一つのことに気づいた。 蓮についての記事が、ほとんどない。 事件当時は名前が出ている。 けれど、その後については突然途切れている。 まるで。 誰かが彼の存在を消したように。 美咲は画面を見つめた。 怖い。 ここから先を知れば、もう後戻りできないかもしれない。 蓮が何をしたのか。 何を隠しているのか。 知ったあとで、自分がどう思うのか。 それすらわからない。 それでも。 美咲はパソコンを閉じなかった。 「……知りたい」 それは、蓮を疑いたいからではなかった。 ただ、もう一度彼と向き合うために。 何も知らないまま、好きだと思い続けることはできない。 美咲はスマートフォンを手に取った。 蓮の名前を表示する。 メッセージを送ろうとして、指を止めた。 そして、短い文章を打つ。 『話したいことがあります』 送信する。 既読はつかなかった。 美咲は画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。 返事が来るかはわからない。 それでも。 今度は、自分から逃げない。 その気持ちだけは、もう決まっていた。スマートフォンの画面に、一件の通知が表示された。『話したいことがあります』蓮は、その文字をしばらく見つめていた。美咲からだった。胸の奥が、静かに痛む。連絡をしないようにしていた。彼女から離れることで、危険から遠ざけられると思っていた。それなのに、美咲のほうから連絡が来た。しかも。「話したいことがあります」その言葉が、頭から離れない。蓮は一度、画面を閉じた。返事をしなければならない。そう思う一方で、何を返せばいいのかわからなかった。今までのように、曖昧な言葉で逃げることはできない。けれど、本当のことを話せば、美咲を危険にさらすかもしれない。迷った末、蓮は短く入力した。『わかりました。会いましょう』送信する。すぐに既読がついた。そして、少しして返事が来る。『ありがとうございます』それだけだった。蓮はスマートフォンを置いた。「……ありがとう、か」その言葉が、妙に胸に刺さった。二人が会うことになったのは、以前一緒に行った小さな喫茶店だった。夕方。
美咲は、自宅に帰ってからもスマートフォンを手放せなかった。画面には、あのメッセージが残っている。『蓮のことを忘れてください』短い文章だった。それなのに、何度読んでも胸の奥が落ち着かない。誰が送ってきたのか。どうして自分のことを知っているのか。そして何より。どうして、蓮のことを忘れろと言うのか。美咲はソファに座ったまま、蓮とのメッセージ画面を開いた。最後に会った日のことを思い出す。「僕と一緒にいると、あなたが傷つくかもしれない」あのときの蓮は、いつもの穏やかな表情ではなかった。何かを恐れていた。美咲には、そう見えた。「……やっぱり、何かあるんだ」今までは、蓮が話したくないなら無理に聞かなくてもいいと思っていた。過去には誰にだって触れられたくない部分がある。自分にもある。だから、待つつもりだった。いつか蓮が話してくれるまで。けれど。もう「待っているだけ」ではいられなかった。知らないところで、自分にまで警告が届いた。それはもう、蓮一人の問題ではない。美咲はスマートフォンを置いた。そして、ノートパソコンを開いた。
翌朝。美咲は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨夜のことを思い出す。駅で声をかけてきた男性。水城さん、と呼ばれた気がした。けれど、本人は人違いだと言っていた。「……気にしすぎかな」そう呟いて、ベッドから起き上がる。スマートフォンを確認しても、蓮からの連絡はなかった。当然だ。会わないほうがいいと言われたのだから。それでも、画面を開くたびに期待してしまう自分がいた。美咲は小さく息を吐いた。「私、こんなに寂しがりだったっけ」自分で言って、少しだけ笑う。蓮と出会う前は、一人の時間をなんとも思わなかった。仕事をして、本を読んで、休日には好きな店へ行く。それで十分だった。けれど、誰かと一緒に過ごす時間を知ってしまうと、以前と同じには戻れない。それが少し怖かった。会社に着くと、いつものように仕事が始まった。原稿を確認し、編集部内で打ち合わせをする。忙しくしている間は、蓮のことを考えずに済んだ。そう思っていた。けれど、昼休みになった途端、スマートフォンに目が向いてしまう。何も届いていない。
「五年前、お前は何を見た?」 電話の向こうから聞こえた高瀬の声が、蓮の耳に残っていた。 「なぜ、証拠を隠した?」 答えられないまま、蓮はスマートフォンを握りしめた。 五年前。 その言葉を聞くだけで、胸の奥にしまい込んでいた記憶が引きずり出される。 あの日の雨。 濡れた道路。 黒崎誠一の会社の裏口。 そして、開いたままになっていたドア。 蓮は目を閉じた。 忘れたことなど、一度もなかった。 ただ、忘れたふりをしていただけだ。 「……今さら、何が出てきたんだ」 独り言のように呟く。 高瀬は詳しいことを電話では話さなかった。 ただ、新しい証拠が見つかったこと。 そして、それによって当時の捜査を見直す必要が出てきたこと。 最後に、高瀬はこう言った。 「近いうちに会う。今度は、全部話してもらうぞ」 通話が切れる。 蓮はしばらく画面を見つめていた。 頭に浮かんだのは、事件のことではなかった。 美咲の顔だった。
週が明けた。美咲はいつも通り出社した。けれど、いつも通りではないことが一つだけあった。蓮から連絡が来ない。昨日も、その前の日も。これまでなら、短いメッセージが一つくらい届いていた。《今日は遅くなりそうです》《ちゃんと帰れましたか?》そんな何気ない言葉だった。それがなくなっただけなのに、美咲はスマートフォンを見る回数が増えていた。「……何を期待してるんだろう」自分に呆れながら、画面を伏せる。仕事に集中しよう。そう思っても、なかなか頭が切り替わらない。昼休みになっても、通知はなかった。美咲は小さく息を吐いた。忙しいのかもしれない。そう思えばいい。それなのに、胸の奥には小さな不安が残った。その日の夜。仕事を終えて会社を出たところで、スマートフォンが震えた。画面には、蓮の名前。美咲の胸が跳ねる。《少し会えませんか》短いメッセージだった。《今からでも大丈夫です》すぐに返信する。待ち合わせ場所に指定されたのは、駅から少し離れた公園だった。
翌朝。美咲はいつもより少し早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨日のことを思い出す。蓮と話した。それだけなのに、胸の奥がまだ温かかった。好きな本の話をした。休日の過ごし方を聞いた。くだらない話で笑った。たったそれだけの時間が、思っていた以上に嬉しかった。スマートフォンを手に取る。蓮から連絡が来ていないか確認してしまい、美咲は苦笑した。「……私、いつからこんなになったんだろう」まだ恋人ですらない。それなのに、少しずつ蓮の存在が日常の中に入り込んできている。嫌ではなかった。むしろ、嬉しいと思っている。だからこそ、美咲は少し怖かった。また誰かを好きになってしまうことが。その日の昼休み。美咲が会社の近くのコンビニへ向かっていると、スマートフォンが震えた。画面を見る。蓮からだった。《今日、仕事は遅くなりますか?》思わず頬が緩む。《たぶん七時くらいです》すぐに返信が来た。《もしよければ、夕食でもどうですか》美咲は数秒、画面を見つめた。







